新出波斯教残経に就て,威尼斯手机版娱乐场華厳思想が明確にあって、それを彼は作品の中に表している

发布时间:2019-12-16 21:48    浏览次数 :

[返回]

原标题:林生海:日本學者三夷教相關論著目録

仏教哲学は現代美術インスタレーション[1]にどう表されたのか。ナム?ジュン?パイクの《TV仏陀》には仏像が登場しているが、それが果たして仏教的な哲学を表しているのだろうか。

要旨無学祖元は、中世期における渡来僧の一人であるが、その門下からは中世に傑出する尼僧、無外如大が出ている。また、その女性参禅者が多いこともすでに指摘されている。平安時代に仏教思想が流布される過程で、仏教は女性を穢れたものとする思想を明確にし、尼寺も著しく衰退した。そこで、女人往生を否定する教説が著しく強調された。しかし平安末期から鎌倉時代にかけて戦乱が頻発し、夫に先立たれた女性が仏教に救いを求めるようになると、仏教はそれまで否定してきた女人往生を考えざるを得なくなった。いわゆる、鎌倉新仏教の開祖たちもそれぞれに女人往生説を展開している。ここでは、無学祖元の語録『仏光円満常照国師語録』より、無学に参禅した女性と、無学が彼女らに与えた法語などをもとに無学の女人往生観について考えたい。中央民族大学外国語学院日本語系 外籍専家渡邉 索はじめに従来、前近代における女性の地位は低いと見られてきた。今日の日本中世史研究においては必ずしもそうではない、特に女性が財産相続権を有していたことに注目して女性の地位はある程度保障されていると考えられている。一方で仏教における女性差別は厳然として存在し、それについてもこれまで様々な研究が行われてきた。概して前近代の仏教がいかに女性を差別してきたかを解き明かしてきた。中世についても、既に女人往生や尼僧、女性参禅者といった様々な観点から中世仏教がどのように女性を捉えたか明らかにせんと試みられている。しかし、それらに言われているとおり、女性に触れた史料は少なく、中々全体像を明らかにすることは困難であると言える。中世の女性像を明らかにするには経済的な側面ばかりでなく、様々な要素を合わせて総体的に判断しなければならないはずである。その中でも仏教の位置付けは重要だと思われる。なぜならば、「宗教における性差別問題は、宗教のみの問題領域にとどまるものではありえない」のであり、「宗教とは、それに基礎づけられて形成された文化パラダイムの中核として、そのパラダイムに生ずる一切の世界観、価値観、人間観、モラルなどから社会制度、性規範、主体形成のあり方をまで支配する力をもつもの」だからである[1]。つまり、前近代の人々を支配する仏教の女性観を明らかにすることで中世における女性の地位を精神文化的側面からとらえなおすことができると考えられる。中世には劇的な時代の変化に相関していわゆる“鎌倉新仏教”とかつて呼ばれた仏教の新潮流が発生した。それらの新しい仏教思想は女性を取り巻く中世の時代状況に影響され、あるいは時代の女性観を規定していたはずである。ここでは、中世に中国より渡来した禅僧?無学祖元の語録を頼りに、無学がどの様に女性を捉えていたか考えてみたい。同時にこれによって中世女性像を捉え直す一つの端緒になればと考えている。1、古代から中世にかけての女性と仏教 まず、中世までの仏教のもつ女性観を概観したい。日本の仏教史上、女性を忌む思想は平安時代に入っていっそう明確になった[2]。8~9世紀頃、尼僧は国家の仏事、法会の場から締め出された。ここにおいて官僧と官尼という対応関係が崩れ、尼寺の僧寺への隷属も進行した[3]。女性を穢れた存在とし、忌避する考え方は日本社会への仏教の浸透と共に強く定着したと考えられる。仏教の清浄を護持する考えが、女性の生理や出産による出血を穢れと見て忌んだ[4]のである。一方で仏法が王権に入り込む中で、既に王権に結びついていた神信仰の持つ儀礼とタブーを取り込む必要に迫られ、寺内における穢れの排除が行なわれるようになった。女性差別の形成という点では仏教と神信仰は相互補完的役割を果たしたと考えることができそうである。さらに、平安時代を通して、仏教が人々の生活に入り込んで来るなかで女性蔑視の思想もまた人々の間に流布され定着した。とりわけ象徴的であるのが血盆経の流布である。血盆経は10世紀以降に中国で成立したいわゆる「偽経」だが、道教にも取り入れられて広く流布し、さらに日本に伝播した[5]。ここでは、女性は月経、出産の出血による穢れから死後血盆地獄に堕ちると説かれ、血盆経をその苦しみから免れることができると言う。女性は生れながらにして穢れており必ず地獄に堕ちるというのである。そもそも仏教は“五障”として「梵天?帝釈天?魔王?天輪聖王?仏」になれない、つまり、女性は仏教世界の指導者にはなれないとしており、女性は、悟りを得ることが出来ない=仏になれない=往生できないと、女性の往生を否定している。その理由は『法華経』によれば「女人は垢穢にしてこれ法器に非ざる」からとある。これでは現世で如何に高い徳を積んでも悟りを得ることは出来ず、往生は叶わないことになる。既に述べたように8、9世紀に尼寺が衰退したが、それにより女性の幼少期における出家は例外的になった。一方で、老病死に際して現世や来世での救済を願う、臨終出家が主流になったのである。しかし、平安末期から鎌倉時代にかけて近畿のみならず全国に戦乱が相次ぎ、夫を戦争で失った。出家女性が急激に増加した。古代では出家は婚姻関係を否定するもので、離婚の一形態として出家が行われていたのに対して、夫の死後に再婚を拒絶し夫婦関係を継続し夫の菩提を弔うという新しい女性の出家に対する考え方が定着したことによる。いわゆる“後家尼”の出現[6]である。結果、戦死した夫の菩提を弔うため出家する武家婦人が増加し、“後家仏教”の様相を呈してきた。“鎌倉新仏教”、中世仏教の担い手たちは、女性の救済、“女人往生”の問題を考えざるを得なくなっていたのである。2、中世仏教開祖の女人往生観 中世仏教開祖たちの女性観はどのようなものであっただろうか、以下に示してみる。法然の場合、善導の「弥陀の本願力によるがゆえに、女人も仏の名号を称すれば正しく命終の時、則ち女身を転じて男子となることを得、仏の大会に入りて無生を証吾す」を受け、既存仏教が、五障三従によって女人の成仏の道をふさいでいると強く批判。特に教団を支える多くの女性信者が居た[7]事が分かっている。その主張は阿弥陀の力によって女性は男性に変化して成仏できるという“変成男子”による成仏である。 親鸞は「弥陀の大悲ふかければ、仏智の不思議をあらわして変成男子の願をたて、女人成仏ちかひたり」、「弥陀の名願いによらざれば百千万却すぐれどもいつつのさわりはなれねば、女身をいかでか転ずべき」とあり、法然と同じく変成男子による救済を説いた。一方で「男女大小聞きて、同じく第一義を獲しめむ。…まさに知るべし諸の衆生は、皆これ如来のこなり」とあるなど男女平等の往生を説いており一定でない。さらに親鸞が妻帯していたことは有名だが、親鸞には「女犯」[8]の観念があった。また、真宗教団には尼は居ても尼寺はなく、寺の主人たる僧を坊主、妻尼を坊守として扱った。日蓮の場合、「此の経持つ女人は一切の女人にすきたるのみならず一切の男子に越へたりとみて候」とあり、『法華経』こそ唯一の救い、女性を救う教えであると主張した。これによって、法然らの浄土教説は女人を助ける法ではないと批判している[10]。『法華経』は日蓮によって女人救済の法と解されたのである。では、中国からもたらされた禅宗においてはどのように女人往生が説かれたのであろうか。入宋して曹洞禅を伝えた道元の場合、在来仏教が行ってきた女人結界を鋭く批判し、男女共に求道心あるものは平等と主張した。また道元は教団に多くの尼僧を迎えた。さらに「男性を惑わせる女性が穢れているのではなく、女性に惑わされる男性が穢れている」という現代にも通じる斬新な教説を展開した。しかし、「女身成仏の説あれど、またこれ正伝にあらず」と言うなど女人の往生には否定的でありその往生は変成男子[11]によるとした。これまで、中世仏教開祖たちの女人往生説についてみたが、その共通する点は既存仏教の女人結界への批判と、“変成男子”による女性の往生に見ることができる。 中世には宋元との民間貿易の拡大にともなって僧侶の往来が頻繁になり、特に中国から禅宗の高僧が来日したことが時代のトピックとなっている。これらの僧侶は日本に大陸最新の仏教教学もたらした。中国から来化した渡来僧は女人往生の問題にどの様に対処したのであろうか。宋朝より来日した無学祖元の門下に無外如大という尼僧がいる。彼女は無学臨終に際して「後事を託す」とまで言われ、後に尼寺を官寺として組織した尼五山で開山になる。如大については「その存在は日本女性史?宗教史上極めて重要な存在として位置付けられる[12]」とされている。 以下、無学祖元の女人往生観について少し考えてみたい。3、無学祖元について、その来歴と教化の態度まず、無学祖元その人について紹介したい。無学祖元は、俗姓は許、諱は祖元、字は子元、後に無学と号した。1226年、慶元府に生れる。早くに出家し、径山無準師範以下諸知識に歴参している。1269年、真如寺の住持になった後、天童寺などに歴住した。1279年、北条時宗の招聘により来日し、建長寺に住した。その後、円覚寺を開くなど日本仏教界で活躍し、南宋禅の普及に勤めた。1286年、60歳で没するまで「度する弟子三百、余嗣法者衆、皆光明盛大」と言われるように多くの高僧を育てた。門下に高峰顕日などの高僧がいる。死後、仏光円満常照国師を追贈され、一般に仏光国師と呼ばれる。無学祖元に関する史料は語録として、『仏光円満常照国師語録』があり、他に『無学禅師行状?仏光禅師行状』『仏光円満常照禅師年譜』一真?徳温撰がある。伝記には『元亨釈書』巻8?釈祖元伝、『延宝伝燈録』巻2?子元祖元伝、『本朝高僧伝』巻21?祖元伝、などがある。このうち『仏光語録』は“語録中の語録”と言われるすぐれた語録である。一方で『元亨釈書』は書全体の内容に疑問が持たれており、無学祖元の伝についてもその出自や事績に語録などと異同が見られる。後代に編まれた『延宝伝燈録』、『本朝高僧伝』両書の本伝は『元亨釈書』を引いているため、無学祖元の教化活動を明らかにするには『仏光語録』に拠るところが大きくなる。本論では大正蔵所収のものを典拠とした。無学祖元の人物像について玉村竹二は以下の様に評している。曰く“人を接化するのに極めて懇切丁寧”である。これは『仏光語録』巻9「告香普説」などに見られ、同普説では、身分の低いある武士が無学の下を訪れ、「いくら学んでも仏法が一向に理解できぬ」と涙ながらに訴えるが、無学は優しく懇切丁寧に粘り強く説き、ついにこの武士は悟りを得るというエピソードが紹介されている。また、“無学祖元という人は…自らに対して厳格にして、他人に対して憐愍に満ち、懇切丁寧なる一人格、些か感傷に堕するかとさへ思われる浪漫的性格さへ具備している”といい、同時に“この人ほど自己を告白する禅僧は稀である”とされている。この様な玉村氏が称した無学の為人と教化の態度は様々な史料に見てとれる。無学が率直な宗教指導者であったことは、日本という“外国”で宗教指導を行うにあたって、女人往生という問題に直面したときいかに行動したか、その根底を考えるうえで無視できない要素であろう。参禅者には北条時宗夫人のような高貴の女性も多く、曲学阿世の輩であれば時流に合わせて自らの教説を変えているであろう。その点で、元軍の刃に曝されながら蕭然としていたという無学は自らの教説を権門に阿って変えるような人物ではない。また、その懇切丁寧な指導は一人一人の参禅者に対して向き合う姿勢であろうから、教化活動の実態を知るうえで語録の意義を高めている。無学は1979年に渡来することになるが、これは北条時宗が、蘭渓道隆の死後建長寺の住持を求め、徳詮?宗英を派遣[13]したのを受けてのことである。やや本論の主旨とはずれるが、この無学来日の経緯をめぐっては二種類の意見が示されてきた。従来、玉村氏らによって無学祖元を南宋滅亡以降元朝の支配を嫌った亡命僧と捉える考え方が示されると、これが一般に知られ、無学が蒙古の襲来と戦う北条時宗の軍師であったかのような解釈がなされてきた。これに対して西尾賢隆氏は、最初は無学ではなく別人を招請される予定であったことや、無学が度々帰国の意志を示していることから亡命僧とは言えないと反論している。西尾氏は『仏光国師語録』巻四「接荘田文字普説」を引いて、“「老僧、日本の招き趣くに臨み、多く衲子有り、衣を牽き泣を垂る。我、諸人に向って道う『我、三両年にして便ち回らん、煩悩を用いざれ』と」とあるが、両三年したら帰ろうという亡命があるであろうか、そうはいえまい。”としている。しかし、“両三年したら…”を含む箇所、には「老僧臨趣日本之招、多有衲子、牽衣垂泣。我向諸人道、我三両年便回、不用煩悩。吾今与諸兄説、諸人見老僧、却作等閑、甘悠悠度了歳月。不知老僧撇掉了大唐多少好兄弟。要来開諸兄眼目。中間或有一箇半箇、直下如生獅子児哮吼壁立万仭。方可与仏祖雪屈方称我数万里遠来之意。檀那建此道場、堂宇高広四事供養種種妙好。若有幾人参請眼目開、契得老僧意者、亦可以鎖我思郷之念、慰我為法求人之心、千万勉力…」とあり、修行を等閑にする弟子達を叱咤する言葉であり、西尾氏が言うような無学が帰国の意志を示した言葉とは取りにくい。無学が亡命僧かそうでないかを論ずるのは本論の目的とするところではなく、俄には断じがたい問題であると思われる。ここではむしろ、「懇切丁寧な教化」「本心を吐露する」という無学の人物像を彷彿とさせる内容であるとみたい。もっとも強調したい点は、無学祖元という人物がきわめて率直に、かつ丁寧に参禅者に向き合って指導にあたったという点である。4、無学祖元の女性教化と女人往生観女性の往生が否定されるなかで、救済を求める女性たちはそれぞれに高僧、禅知識を尋ねており、「鎌倉時代に来日した渡来僧の周辺には、禅宗に帰依し、真摯な求法修行のなか渡来僧と問答を交わし、その力量を認められた尼僧が何人もいた」と言われる。円覚寺文書によれば北条貞時は『禅院制府』を定め、女性が寺に入って良い日を規定したといい、女性で参禅する者の多かったことが忍ばれる。この中で無学はどのように女性と関わったのであろうか、尼僧の研究に史料的制約が多いことはすでに述べたとおりだが、以下無学に関わる尼僧、女性参禅者について語録から見ていきたい。無学祖元に関わる女性としてその筆頭にあげるべきなのは無外如大である。無外の伝記は『延宝伝燈録』巻10にあり、「京兆景愛尼無外如大禅師、別号無著、初名千代野。陸奥太守平泰盛之女…」などとある。しかし安達泰盛の娘とは考えにくく、「資寿院置文」[14]に記される無着の伝記が混入したと考えられている。出自も明らかでない無外ではあるが、『佛光国師塔銘』には、無学の臨終に際して「後事を託」されたほど無学に愛された高弟であり、無学が最も頼んだ弟子としてバーバラ?ルーシュ氏により紹介されている。また後に尼寺を官寺として組織した尼五山筆頭の景愛寺で開山となっており、その頂相が宝慈院に現存している。尼僧の頂相は極めて稀で同時代に高く評価されていたことが分かる。語録上にも無外の名は散見され、その法器の高さが無学の率直な言葉によって度々賞賛されている。無学の日本における教化の大きな成果の一つと言えるのがこの無外如大の存在であり、無学の高弟の中から後に尼五山を再建するほどの尼僧が登場したことは注目すべき事実である。他に語録に見られるその他の尼僧、女性参禅者を列挙すると、以下の通りである。 妙覚大姉「妙覚大師下火 五障身妙覚体。猶如摩尼出於濁水。…」 道性大姉 僧爾大姉 「示僧爾大師 …爾不見妙總。亦是一女流。」 海雲比丘尼 小師尼慧蓮 小師慧月 長楽尼院長老 尼慧禅 尼本上人 が見られる。これらの内、大師とあるものは、「大師は高僧に朝廷より与えられる号であるとともに、禅宗の信仰深い女性を指す。大姉と同義」とあることから、内容から見て、女性として良いと思われるものを挙げた。以下に具体的な法語をあげて考えてみたい。まず、巻7には「示小師尼慧蓮 仏性覚体。妙明円満。不問女人。不問男人。受用具足。不用安排。…」とあり、「男性であれ女性であれ、具足を受けた者は区別がないのだ」としている。また、同じく巻7を見ると、「示小師慧月 儞性如宝月。…是名智慧光。此光照山河。男女無異相。…証此妙理時。便入諸仏海。」と、同じく男女の別がないことを言っている。 また、無学は「誰が浄土に往生できるか」と質問された際に、「…昔迦葉尊者一日乞食。不擇貧富乞食。路中逢一女人。見尊者行乞。廻起念。思身辺更無可有。只彼器中有潘汁。挙手奉献。尊者受施。訖迺騰空。現十八変相。女人即得生天。…」と答えている。摩迦迦葉に布施を行った女性が成仏を得たという仏伝を引いて、「功徳によって男女の別なく往生できる」と答えているのである。さらに、時宗が仏賛を求めた際には、「太守請賛仏賛五大部経典普説 …又有一宝女。持珠白仏願我此珠貫仏頂上即擲。其珠便貫仏頂。人天大会。各見珠中所現来世成仏劫土。仏言此宝女已於九万六億仏所。種植善根。所生之処。」とあるが、これは自らの頭頂に珠を投げた女性がなぜ成仏し得るか釈迦が説いた仏伝を紹介しているのである。 これらを総括すると、女人の往生を積極的に支持していたと言える。とりわけ「男女の別はない」とする教説は画期的なものに見える。しかしこ点については注意を要する。次節で述べたい。5、無学と『法華経』観音信仰無学は『法華経』を引き、「諸小乗皆蒙授記。龍女献珠成仏。大涅槃経体円極。無処不周」として大乗の立場を明らかにしている。禅宗は“不立文字、教外別伝”といい本来根本とする経典を持たないが、「夢中問答集」によれば、「唐土の禅院には毎朝粥の後、大悲咒一遍なむと誦するばかりなり。これ則ち座禅を本とする故なり。…建長寺の始めには、日中の勤めはなかりけり。蒙古の襲い来りし時、天下の御祈りのために、日中に観音経をよみたりける。そのままにしつけて、今は三時の勤めとなりたり。かようの勤めも、禅家の本意にはあらねども、年来しつけたることなれば、後代の長老たちもとどめ給ふことなし」とあり、『観音経』の読誦は「無学によって儀則化された」ことが明かである。なお、『元亨釈書』巻八淨禅三之三釈祖元伝に「四年春正月、平帥来謁。元采筆書呈帥曰、莫煩悩。師曰、莫煩悩何事。元曰、春夏之間博多擾騒。而風纔起万艦掃蕩。願公不為慮也。果海虜百万寇鎮西、風浪俄来一時破没。初元在雁山、定中観音大士現形曰、我将舡来取汝。乃示日月二字。元起詣像前卜籖。亦得日月二字…語曰、百万虜寇。天兵助順、豈不勝耶…」とある。これについては、「『礼記』「曲礼上」、「故日月以告君」を典拠とし、婚姻の日取りを決めること」[15]とされる意見もあるが、やや強引な解釈に過ぎよう。ここでは、『元亨釈書』著者の主張として「無学が時宗に蒙古襲来を予言し、その根拠として無学が観音の擁護を得て知り得たからだ」としたものとしたい。 無学と観音のつながりについては、『無学禅師行状』に「母陳氏、嘗夢一僧襁褓嬰児以授。遂懐妊。母以累重不楽意。夜午見、一白衣女子登牀、腹曰、此児佳男子、善保勿棄。及誕白光耀室」とある。無学の出身地慶元府は観音の霊場普陀山に近く、白衣を纏った女性は典型的な観音の像容であることから考えて無学は強い観音信仰を持ったことは明らかである。無学は女人往生を積極的に支持していることは前節ですでに述べたとおりだが、無学の明確な『法華経』尊重の態度から見て、女人往生の根本と成ったのは『法華経』であり、観音信仰と見るべきである。『法華経』には「龍女は五障?垢穢ゆえに女性は成仏できないとする舎利弗の眼前で釈迦に宝珠を献上し、変成男子して成仏を果たした」とあり、『法華経』は変成男子による女人往生の重要な根拠となっている経典である。 従って、『法華経』の重視から見れば、無学の女人往生説は“変成男子”の域を出ていないと言うべきだが、それについてはなお検討の余地があるようにも思われる。今後の課題としたい。小結 以上のことから、無学は宋朝から来化し、多くの女性を含む僧俗を教化した。強い観音信仰を持ち、“変成男子”による女人往生の根拠となる「法華経」読誦を進める一方で、その法語を見ると、男女の別ない往生を説いた形跡も見られる。無学は多くの女性を教化し、その門下からは無外如大が出て、尼寺再興を果たした。無学の教化は“変成男子”についてはなお考慮すべき点をのこすものの、女人往生が否定された前時代に反して、女人往生説を肯定しており、画期的なものと言えるだろう。これは渡来僧無学の日本にあたえた影響の一つと見ることもできるだろう。参考文献一覧鷲尾順敬『鎌倉武士と禅』、1916年、日本学術普及会木宮泰彦『日華文化交流史』、1954年、冨山房松野純孝「鎌倉仏教と女性」1962年玉村竹二「新仏教教団の発展」1963年、岩波書店玉村竹二『五山文学』、1966年、至文堂ミシェル?スワミエ「血盆経の資料的研究」1965年、人文書院蔭木英雄「五山文学の源流」1972年、中央図書出版社川添昭二「鎌倉時代の対外関係と文物の移入」1975年、岩波書店森 克己『新訂 日宋貿易の研究』、1975年、国書刊行会玉村竹二『日本禅宗史論集』、1976年、思文閣川添昭二『蒙古襲来研究史論』、1977年、雄山閣広瀬良弘「鎌倉期の渡来僧」1983年、雄山閣魏 栄吉『元?日関係史の研究』、1985年、教育出版センター阿部肇一『中国禅宗史の研究』、1986年、研文出版芳賀幸四郎「渡来禅僧とその業績」1987年、鹿野山禅青少年研修所浄土真宗伝道院特定課題研究会『女人往生』、本願寺出版社 1988年西尾賢隆「鎌倉期における渡来僧をめぐって」『日本歴史』1989年転川力山「道元の《女人不成仏論》について」1990年バーバラ?ルーシュ『もう一つの中世像』、1991年、思文閣川添昭二『対外関係の史的展開』、1995年、文献出版山藤夏郎「無学祖元における観音信仰」2002年原田正俊「禅宗と女性」2002年勝浦令子『古代?中世の女性と仏教』、2003年、山川出版社西口順子「女人成仏説にみる古代中世の女性と仏教」2003年、人文書院舘 隆志「鎌倉期における禅宗の尼僧」2008年舘 隆志 「兀庵普寧に参じた尼僧をめぐって」2009年、勉誠出版

威尼斯手机版娱乐场 1

ナム?ジュン?パイクの主張の中には禅?華厳思想が明確にあって、それを彼は作品の中に表している。華厳思想は大規模なビデオ?インスタレーションとして表現されており、また、グローバルヴィレッジ[2]思想を衛星通信によるネットワークの中で、禅的な思想は《TV仏陀》と彼の言動の中で表している。


日本學者三夷教相關論著目録

本稿で、華厳思想、禅を挙げたのは、この宗教的な思想は彼の作品において重要なコンセプトになっているからであり、グローバルヴィレッジと遊牧民の関係を挙げたのは、華厳的な思想を背景として作られた大規模の衛星通信ビデオ?アートは彼の遊牧定住者の生活と密接な関係があったからである。華厳思想と禅の沈黙を理解することは彼の思想や作品を理解する上で重要である。稲賀繁美は亀の甲羅が一枚ずつTVモニターによって置き換えられている巨大なビデオ?アート作品《亀》— モニターひとつひとつが世界各地の異なる源から得られた映像を再生している— は亀を象った電動の曼荼羅、つまり「亀の曼荼羅」と評価し、彼が韓国の仏教的世界を背景に色濃く宿しもつ創作家であった[3]と見ている。

[1] 大越愛子『性差別する仏教』[2] 古代において『日本書紀』は差別のあり様を示している。イザナギ?イザナミの最初の子ども、ヒルコとアワシマは女神イザナミが先に声をかけたため、障害を持って生まれた。これは女性差別と同時に障害者差別を示す例である。[3] 『日本三大実録』880年5月19日条に「大和西陵尼寺を西大寺に摂領せしめる」などとある。[4] 高取正男『神道の成立』[5] ミシェル?スワミエ「血盆経の資料的研究」[6] 母系制から父系制への移行に関係するか。[7] 松野純孝「鎌倉仏教と女性」によれば、法然が弾圧を受けた際、弾圧対象となった家屋は多く女性によって提供されていたとされる。[8] 「女犯」は女性を穢れととらえる事を前提としていると考えられる。[9] 『鎌倉遺文』11800号[10] これが変成男子説に対する批判であるかについては不明。[11] 転川力山「道元の《女人不成仏論》について」[12] バーバラ?ルーシュ『もう一つの中世像』[13] その書状に言う「時宗意を宗乗に留め、積むこと年序有り。梵苑を建営し、緇流を安止す。但だ時宗毎に憶へらく、樹に其の根有り、水に其の源有りと。是を以って宋朝の名勝を請い、此の道を助け行わしめんと欲し、詮英の二兄を煩わす。鯨波の険阻を憚ること莫く、俊傑を誘引し、本国に帰り来るを望みと為すのみ。不宣。」なおこの書状原本は円覚寺に伝存し国宝。[14] 夢窓疎石、相国寺所蔵[15] 山藤夏郎「無学祖元における観音信仰」2002年

林生海(安徽師範大學)

図 1 ナム?ジュン?パイク《亀》1999年

一、论文

本稿の構成として、宗教と現代美術、特にナム?ジュン?パイクと華厳思想について多く語った稲賀繁美の論文『華厳経と現代美術 相互照射の試み』を先行論文として踏まえ、1?ケージとの出会いと禅の影響、2?衛星通信メディア?グローバルヴィレッジ、3?《TV仏陀》彼の思想を考察する。

羽田亨,新出波斯教残経に就て,東洋学報通号,247-263,1912-5

1?ケージとの出会いと禅の影響

原田淑人,唐小説杜子春伝と祆教,東洋学報6(3),423-427,1916-10

ナム?ジュン?パイクの仏教思想の背景には3つのルーツがある様に思える。

石田幹之助,支那に於いて出版せられたる回教文献に就いて,東洋学報8(2),308-314,1918-5

ⅰ.祖国である韓国仏教に支配的な華厳教学、禅と易経。

石田幹之助,アー・フォン・ルコック『高昌古址発見トルコ文摩尼教遺文攷』第2冊,東洋学報12(3),409-415,1922-10

ⅱ.日本?鎌倉での居住経験/東大?美術史学科の在学経験

桑原騭藏,大秦景教流行中国碑に就いて(『桑原騭藏全集』第1集,岩波書店1968年),『東洋史説苑』,弘文堂,277-314,1927-6

ⅲ.鈴木大拙、ジョン?ケージに連なる禅思想の芸術への適用

神田喜一郎,祆教雑考,史学雑誌39(4),381-394,1928

ナム?ジュン?パイクはアメリカで活動した韓国人の現代美術家であり、ビデオ?アートの開拓者である。パイクは生涯にわたって韓国、香港、日本、ドイツ、アメリカに移住したステーショナリー?ノマドだった。

石田幹之助,祆教叢考:神田學士の「祆教雑考」を読みて,史學雜誌34(6),1928

1951年から彼の一家は鎌倉市にすみ、1952年4月、東京大学教養学部文科Ⅱ類に入学、1954年4月には東京大学文学美学?美術史学科に進学した。1956年に同大学を卒業し、20世紀音楽を学ぶために西ドイツに渡った。美術史学以外にも音楽を学び、ほかにも禅や華厳思想などの幅広い思想?哲学に通暁していた。彼の暮らしていた鎌倉市には寺院が多くあり、在学中は寺へ行って坐禅を組んでいたため彼の中に禅は深く沈んだと推測される。

桑原騭藏,祆教に関する一史料,史學雜誌39(7),1928

さらに、ジョン?ケージ[4]との出会いは彼にとって人生と活動に方向付ける存在であった。ケージの所属する前衛芸術団「フルクサス」[5]に参加し、東洋思想、特に禅の思想の影響を深くうける。ケージ本人は鈴木大拙[6]と出会い、禅に心を深く引かれ、禅の沈黙を表現した代表作品「4分33秒」を作り、音楽の歴史に新たな1ページを加えることとなった。ケージやフルクサスの禅受容の在り方は、ナム?ジュン?パイクを音楽演奏からパフォーマンスそして、アート作品へと変遷するきっかけになったのである。

羽田亨,景教経典志玄安楽経に就いて,東洋学報18(1),1-24,1929-8

ナム?ジュン?パイクの芸術コンセプトは、「諧謔精神(かいぎゃくせいしん)」[7]「禅」「東洋と西洋の融合」である。彼の作品には多くの仏像が取り入れられ、「心の働きを集中させる」禅の思想を現代アートに表現し、仏陀の静かな存在によって具象化され、東洋文化を西洋人に伝えられるのである。出自である韓国文化、東大での美学の勉強と禅の影響、ジョン?ケージとの出会い、フルクサスに参加しニューヨークへの移るという大きな旅を歩み、芸術に対する考えが形作られた。

重松俊章,唐宋時代の彌勒匪教,史淵3,1931

「禅の思想がなければ彼のなかでビデオ?アートは誕生も熟成もされなかった事実に注目すべき」[8]と榎本香織に挙げられており、禅は彼の一生で探求したテーマであった。彼の最初のビデオ作品《TVの禅》は榎本香織の発言の意味を明らかにしている。彼は東京大学を卒業してからメカニックなものをダダ[9]的なパフォーマンスに結び付けた作品を発表し続けていた。

重松俊章,唐宋時代の末尼教と魔教問題,史淵12,1936

その間、テレビのブラウン管が、新しい芸術の表現メディアになることを予見し、1963年の《TVの禅》などからビデオ?アートへの道を拓く[10]。それから、易経と禅の「宇宙観」?「空」?「沈黙」をタイトルと内容に使ったビデオ?アートは次々と制作される。

神田喜一郎,「敦煌二十咏」に就いて,史林24(4),1939

図 2ナム?ジュン?パイク《TVの禅》1963年

神田喜一郎,素畫に就いて,東洋史研究5(3),193-195,1940-04

図 3ナム?ジュン?パイクI-CHING(易経)1984年

田阪興道,回紇に於ける摩尼教迫害運動,東方學報11卷1期(東京),1940-3

図 4

藤枝晃,景教瑣記,東洋史研究8(5-6),318-324,1944-03

図 5

佐伯好郎,西教東漸の跡を顧みて,史学研究(39),73-81,1949-10

図4:ナム?ジュン?パイク MR.EINSTEIN AND MAR,DAIZETSU SUZUKI (アインシュタインと鈴木大拙)1982年

羽田亨,太秦景教大聖通真帰法讃及び大秦景教宣元至本経残巻について,東方学(1),1-11,1951-03

図5:ナム?ジュン?パイク COMMUNICATION STUDY IN A MOLL 1982

高井貞橘,ネストリウス破門の経緯について:景教正統論の序説として,明治学院論叢(22),47-61,1951-06

2?衛星通信メディア?グローバルヴィレッジ

那波利貞,火の信仰に就いて,神道史研究1(3),248-265,1953

ナム?ジュン?パイク華厳的考えによると、世界観と宇宙観は遍在する仏の智慧と光を表現しているように思われる。彼は世界を跨ぐ衛星通信グローバルヴィレッジの実現を目指していたが、彼にとってグローバルヴィレッジ村落共同体と遊牧民はどういう関係を持っていたのか。彼が遊牧民のように移住しなければビデオ?アートと出会うことができなかった。「ビデオを徹底的に研究するには、馬から始めなればならない」[11]という彼の言葉から我々は何を考えるだろうか。ビデオは電子通信の一種類であり、人間の脳で記憶できないものを記録して伝達してきた。騎馬民族は馬により、空間的に移動と同時に情報を伝達し、西洋のルネサンスまで影響を及ぼした。通信手段が馬からテレックス、テレビ、ビデオ、電話、コンコルド、そしてインターネットへと変遷して、衛星通信によって時間と空間の限界を超え、地球全体が出会い、東と西が繋がることになった。馬は電子化情報の発展によってメディアとしての役割を終わったとしても、メデァアの研究は馬から始まるべきである。情報手段が馬からインターネットへ変わるまで、メディアと仏教はどういう関係を持ち続けていたのだろうか。

茂泉昭男,マニ教論争に見られるアウグスティヌスの悪論の展開,東北学院大学論集(17),1954-12

ナム?ジュン?パイクはケージ?ショックを経て、ケージによって、書いた『個人様式と時代様式』に以下のように述べている。

畑野忍,景教直接資料の研究,神学と人文大阪基督教学院・大阪基督教短期大学研究論集(1),1955-04

「果たして韓国→満州→蒙古→タタール地方へと、十万年を朔のぼるDNAをもったぼくが、西欧で、ルネサンス以後五百年の歴史をもつ様式の最先端に、接木して、それが誠実な僕の個人の全人間性の表現になるのか、あるいは時代に迎合して出世を求めるハッタリ[12]屋のバクチ[13]であるのか?人に責められる前に納得させたかった[14]。」その後、彼は、芸術は個人の人間性の表現ではなく、 様式の展開可能性を一歩一歩きり開いていくパイオニア的なもの、自然科学のようなものだと思うようになった。そこから彼は大規模の国境を越えたコミュニケーション、衛星放送作品を企画していった。彼のネットワーク作品に1970年のポソトンのWGBH-TVで4時間番組として生放送された《ビデオ?コミューン》に始まり、1973年の《グローバルグルーブ》1978年のVIDEO《メディア?シャトルモスクワ/ニューヨーク》、1982年の384台のテレビ受像機を並べ三色旗をかたどった《トリコロールビデオ》、1984年の《グッドモーニング、ミスタ、オーウェル》ニューヨークとパリを衛星中継ビデオで結び、西ドイツ、ロンドン、韓国にも放送された。1986年の《バイ?バイ?キャップリング》には華厳的な思想は時間、空間を超える仏教の世界を実現している。

那波利貞,祆廟祭祀小攷,史窓(10),1956

図 6

龔天民,中國景教に於ける佛教的影響について,印度學佛教學研究6(1),138-139,1958

図 7

富山昌徳,平安・鎌倉時代の仏教説話中に見られる景教の影響について:ルカ伝の間接文献の紹介,日本仏教(7),45-57,1960-03

図6:ナム?ジュン?パイク 《メディア?シャトルモスクワ/ニューヨーク》1978年 VIDEO

窪德忠,宋代における道教とマニ教,東洋史論叢:和田博士古稀記念,講談社,1961

図7:ナム?ジュン?パイク 《グッドモーニング、ミスタ、オーウェル》1984年 VIDEO

香山陽坪,オスアリについて:中央アジア・ゾロアスター教徒の蔵骨器,史学雑誌72(9),1284-1298,1963-09

3?《TV仏陀》ナム?ジュン?パイクの思想

原田淑人,東と西(五)唐代小説杜子春伝とゾロアスター教,聖心女子大学論叢22,7-17,1964-03

図 8:ナム?ジュン?パイク 《TV仏陀》 1975年

池田溫,八世紀中葉における敦煌のソグド聚落(辛德勇譯,劉俊文主編『日本學者研究中國史論著選譯』第9卷,中華書局1993年),ユーラシア文化研究1,1965-11

図 9:ナム?ジュン?パイク 《TV仏陀》 1974-82年

木村信一,景教異端とそのシリヤ語QNOMA関する一考察,桃山学院大学キリスト教論集2,23-41,1966-03

1975年に発表した《TV仏陀》はナム?ジュン?パイクの代表的な作品である。《TV仏陀》はきわめて暗示的なインスタレーションである。図8の中心に仏像が置かれ、仏像に向けられたビデオカメラは仏像を映しだしたもので、仏像は自分自身を、自画像を見つめ、それが自己の深奥への瞑想的凝視となっている。図9のバリエーション作品には、仏像、ビデオ、カメラ、地の山に埋められた受像器で仕立てられ、対面するテレビに仏像自身の映像が映されて、仏像が静かに自己鑑賞する。

小川陽一,敦煌における祆教廟の祭祀,東方宗教(27),23-34,1966-09

モニターに映る仏像を見つめる仏像は、ある明快な問題、自己の本性に目覚め、真の自己を直覚体験している。

佐伯好郎,井出勝美(訳),極東における最初のキリスト教王国弓月,及びその民族に関する諸問題,史観(74),14-28,1966-10

《TV仏陀》で表現されている内容は禅による瞑想世界と公案であり、メディア作品として鑑賞すると情報とコミュニケーションのとりかたを表現した作品である。

須永梅尾,ファウストゥスとアガピウス:古代末におけるマニ教的異端の一考察,文化史学(23),20-32,1968-05

われわれは彼の作品から、座禅をくむことは、自分を見つめる、自分の心をみつめることであり、テレビは鏡の役割を果たす一面とメディア通信によって世界に広がれる手段の一面である。ビデオカメラは傍観者と曼荼羅、仏画を 代表していると伝えていることが分かる。また、ナム?ジュン?パイクの著作や人物としての魅力は当意即妙な公案的問答にある。

須永梅尾,ヨーロッパにおけるいわゆる「マニ教的」異端の系譜について,新潟青陵女子短期大学研究報告1,25-42,1970-03

図 10ナム?ジュン?パイク 《テクノブッダ》

大島春子,「二つの魂」説に見られるアウグスチヌスのマニ教解釈について,中世思想研究(12),47-70,1970-08

《TV仏陀》と似た作品《テクノブッダ》に注目しよう。機械を組み込まれた仏像が、旧型の黒電受話器で電話を聞き、パソコンモニターとつながり、ビデオに撮られている。彼は精神性と熱意をもってこのコンピュータのモニターをテクノロジーと合併している。伝統に影響を与えた技術とそれらの対照、情報通信の発展を表現した作品である。仏像に付けられたモニター曼荼羅は電話、テレビ、パソコンと繋がり、仏教の思想はメディア通信によって世界中に広がるという意図に気づかされる。

梅原猛,塔-21-広隆寺と景教-1,芸術新潮22(9),144-148,1971-09

「アーティストの仕事は未来を考えること」[15]とナム?ジュン?パイクは考えていた。《プリペアド?ピアノ》は彼の発言を体現していると考えられる。上に色んなものが置かれたピアノはただ展示されていればインスタレーション作品であり、そのピアノを演奏するとイベントになる。それを録画するとビデオテープ、すなわち映像作品になる。彼の作品はビデオテープの作品からインスタレーション作品へ、それからパフォーマンスの作品へ、衛星通信によるグローバル作品へと変わっていったのである。この変化は世界の情報通信の変化に巨大な影響を受けながら、彼自身のビデオ?アートの開拓者として活躍する偶然性を高めた。

梅原猛,塔-22-広隆寺と景教-2,芸術新潮22(10),163-168,1971-10

われわれは遠い存在と思われていたメディアと仏教はナム?ジュン?パイクの《TV仏陀》によって関係付けられた。

野村博,景教に就いて,東洋史苑4,25-30,1971-12

参考文献

須永梅尾,「真珠の歌」とマニ教との間,新潟青陵女子短期大学研究報告3,15-28,1973-01

ナム?ジュン?パイク 『タイム?コラージュ』福住治夫編集 ISSHI PRESS1984年

塚田康信,大秦景教流行中国碑の研究,福岡教育大学紀要第5分冊芸術・保健体育・家政・技術科編(22),1-13,1973-02

ナム?ジュン?パイク『バイ?バイ?キャップリング』伊藤義雄編集 リクルート出版部 1986年

大秦景教流行中国碑年表(貞観9〜中華民国54)(大秦景教流行中国碑の研究),福岡教育大学紀要第5分冊芸術・保健体育・家政・技術科編(22),11-12,1973-02

東京都美術館編『ナム?ジュン?パイク展:ビデオ?アートを中心に』 1984(東京都美術館特別展図録;第13号)

塚田康信,大秦景教流行中国碑の研究:碑文の通釈,福岡教育大学紀要第5分冊芸術・保健体育・家政・技術科編(23),63-74,1973

榎本 香織(えのもと かおり)『白南準における禅—その作品からー』428NII-Electronic library service japanese association for religious studies

須永梅尾,"Handam"史料にみるマニ教の霊魂観,新潟青陵女子短期大学研究報告4,21-33,1974-02

稲賀 繁美(いねが しげみ) 『華厳経と現代美術 相互照射の試み』第2回国際華厳会議発表論文から「あいだ」154号

竺沙雅章,喫菜事魔について(收入竺沙雅章『宋元仏教文化史研究』,汲古書院2000年),青山博士古稀紀念宋代史論叢,省心書房,1974

『美術手帖』1980年10月号、11月号

竺沙雅章,方臘の乱と喫菜事魔(農民戦争史の諸問題(特集)),東洋史研究32(4),21-43,1974-03

美学、考 第9号「さよなら ナム?ジュン?パイク」

池田溫,沙州図経略考,『榎博士還暦記念東洋史論叢』,山川出版社,1975

山口勝弘『ロボット?アヴァンギャルド』20世紀芸術と機械 PARCO出版局 1995年3月

森茂男,岡田明憲著『ゾロアスター教:神々への讃歌』,オリエント26(1),108-114,1983


須永梅尾,マニ教神話における2神とそのパルティア語讃歌,新潟青陵女子短期大学研究報告6,21-28,1976-03

[1] ある特定の室内や屋外などにオブジェや装置を置いて、作家の意向に沿って空間を構成し変化?異化させ、場所や空間全体を作品として体験させる芸術。ビデオ映像を上映して空間を構成することもあれば、音響などを用いて空間を構成することもある。

石田幹之助,松本清張,火祆教教と中国文化,中央公論91(6),278-294,1976-06

[2] 電子的なマスメディアによって、それまで人々はコミュニケーションをおこなう障壁になっていた時間と空間の限界が取り払われ、地球規模で対話し、生活できるようになった。この意味で、電子的マスメディアによって地球全体がひとつの村のように緊密な関係をもつようになったという主張のこと。

藤井知昭,ゾロアスター教徒の衣裳:西アジア収集の回想,国立民族学博物館研究報告1(2),427-430,1976-07

[3] 稲賀 繁美(いねが しげみ) 「華厳経と現代美術 相互照射の試み」第2回国際華厳会議発表論文から「あいだ」154号 のすみっこ不定期漫遊連載 第61回 参照。

須永梅尾,マニ教における「エノック書」とその底本について,新潟青陵女子短期大学研究報告7,29-35,1977-03

[4] ジョン?ミルトン?ケージ?ジュニアは、アメリカ出身の音楽家。作曲家、詩人、思想家、キノコ研究家。実験音楽家として、前衛芸術全体に影響を与えている。

森安孝夫,ウィグルの西遷について,東洋学報59(1・2),105-130,1977-10

[5] フルクサスは、アメリカ人のジョージ?マチューナスが主唱した前衛芸術運動、またその組織名である。1960年代を代表する芸術運動として、ネオダダ、ボップアートと並び称される。

山本由美子,ゾロアスター教研究の一動向:M.Boyceの『ゾロアスター教史第一巻』を中心として,オリエント22(2),130-139,1979

[6] 鈴木 大拙、1870年11月11日 – 1966年7月12日)は、禅についての著作を英語で著し、日本の禅文化を海外に広くしらしめた仏教学者である。

片柳栄一,Jesuspatibilis:アウグスティヌスの接したヌミディアのマニ教の一断面,中世思想研究(22),25-47,1980

[7] 華厳世界の中心になるのは、この世界の実相は個別具体的な事物が、相互に関係しあい無限に重なりあっているという考え方である。

片柳栄一,アウグスティヌスとマニ教,商學論究27(1/2/3/4),641-660,1980-01

[8] 榎本 香織(えのもと かおり)『白南準における禅—その作品からー』428NII-Electronic library service japanese association for religious studies

伊藤義教,再説「ゾロアスタ-教徒の来日」,朝日ジャ-ナル22(37),84-86,1980-09

[9] ダダイスム、第一次大戦中から戦後にかけて欧米に興した芸術運動。

中別府温和,聖なる火をめぐるゾロアスタ-教の宗教儀礼:マ-チ(maci)とジャシャン(Jasan)を中心として,宗教研究57(2),205-225,1983-09

[10] 山口勝弘『ロボット?アヴァンギャルド』20世紀芸術と機械 PARCO出版局 1995年3月 124頁参照

加藤武,蜜日と宗教儀礼:日本におけるマニ教-1,立教大学研究報告·人文科学(43),140-122,1984

[11] ナム?ジュン?パイク『バイ?バイ?キャップリング』伊藤義雄編集 リクルート出版部 1986年 99頁参照〈馬からクリストへ〉

上岡弘二,メアリー・ボイス著/山本由美子訳『ゾロアスター教:三五〇〇年の歴史』,史學雜誌93(3),385-386,1984-03

[12] ハッタリ:言葉自体は昔から存在する、最近になって急に使われるようになった言葉。おおげさに表現したりウソを言ったりして相手を圧倒させることを意味し、英語では賭博で使う「ブラフ」が近い意味になる。

岡田明憲,パールシーと神智学:ゾロアスター教近代化の一側面,オリエント28(2),66-77,1985

[13] バック:賭博

中別府温和,ゾロアスタ-教における死体悪魔(druxsyanasus)について,哲学年報(44),21-37,1985-02

[14] ナム?ジュン?パイク 『タイム?コラージュ』福住治夫編集 ISSHI PRESS1984年 12頁参照

長沢順治,マニ教の二元相克と詩,大東文化大学英米文学論叢(16),70-76,1985-03

[15] ナム?ジュン?パイク『バイ?バイ?キャップリング』伊藤義雄編集 リクルート出版部 1986年 86頁参照

威尼斯手机版娱乐场,山本由美子,ゾロアスター教のフラフストラ観,史學雜誌94(9),1421-1449,1548,1985-09

Immoos Thomas,景教の碑文:異なる宗教と宗教が対話したとき,ソフィア35(1),97-101,1986

吉田豊,漢訳マニ教文献における漢字音写された中世イラン語について-上(内陸アジア言語の研究2),神戸市外国語大学外国学研究(17),1-15,表6枚,1986

吉田豊,漢訳マニ教文献における漢字音写された中世イラン語について(上),「内陸アジア言語の研究2」長田夏樹教授退官・退班記念篇,神戸市外国語大学外国学研究17,1-15,1987-03

須永梅尾,マニ教文学における讃歌と詩篇:マニの涅槃をめぐって,新潟青陵女子短期大学研究報告18,27-36,1988-02

河野一典,『創世記』冒頭をめぐるマニ教徒の問いの意味について:Augustinus,Confessiones XI,10,12,中世哲学研究:Veritas7,61-65,1988-11

西脇常記,「大秦景教宣元至本経」残巻について,禅文化研究所紀要(15),107-138,1988-12

須永梅尾,マニ教学250年,新潟青陵女子短期大学研究報告19,1-12,1989-02

吉田豊,森安孝夫,麹氏高昌国時代ソグド文女奴隷売買文書,「内陸アジア言語の研究」4,神戸市外国語大学外国学研究19,1-50,1989-03

秋山光恵,「大秦景教流行中国碑」を訪ねて,神学と人文:大阪基督教学院・大阪基督教短期大学研究論集30,181-187,1990

菊地伸二,『マニ教徒に対する創世記注解』におけるordoの意味,中世哲学研究:Veritas9,64-68,1990-11

吉田豊,SundermannW,ベゼクリク・ベルリン・京都:ソグド文字によるマニ教パルティア語の賛歌,オリエント35(2),119-134,1992

寺島憲治,バルカンの新マニ教,現代思想20(2),173-179,1992-02

河野一典,アウグスティヌスにおける「地」(Genesis,1,1-2)としての質料:マニ教徒論駁の観点で,中世哲学研究:Veritas11,86-90,1992-11

加藤九祚,マニ教研究ノート,創価大学人文論集5,242-263,1993-03

吉田豊,中世イラン語と古代チュルク語:マニ教文献中の奥書2種,内陸アジア言語の研究8,127-133,1993-03

吉田豊,森安孝夫著『ウイグル=マニ教史の研究』,史學雜誌102(4),595-605,1993-04

梅村坦,森安孝夫「ウイグル=マニ教史の研究」,東洋史研究53(1),167-175,1994-06

岡田明憲,アルダ-・ウィ-ラ-フの書:ゾロアスタ-教徒の霊界旅行,ユリイカ26(13),342-350,1994-12

吉田豊,無常を説くマニ教ソグド語文書:京都大学文学部所蔵の写真資料から,オリエント37(2),16-32,1995

渡辺はるな,魔と犬:ゾロアスター教を中心に,比較思想研究22,168-171,1995

菊地伸二,『未完の創世記注解』における「創造」についての一考察:『マニ教徒を反駁する創世記注解』との比較において,中世哲学研究:Veritas14,96-103,1995-11

岡田明憲,ゾロアスター教の大女神:Armaiti,Aši,Anahita,オリエント39(1),85-99,1996

戸田聡,キリスト教修道制の生成とマニ教:エジプトとシリアの場合,日本中東学会年報(11),183-208,1996-03

島恭裕,マニ教細密画中の獣頭像に関する考察,民族考古:大学院論集3,132,1996-03

田辺勝美,ソグド美術における東西文化交流:獅子に乗るナナ女神像の文化交流史的分析,東洋文化研究所紀要(130),213-277,1996-03

岡崎和子,アウグスティヌスにおける意志の自由の問題:マニ教との関連で,北陸大学紀要21,181-191,1997

影山悦子,東トルキスタン出土のオッスアリ(ゾロアスター教徒の納骨器)について,オリエント40(1),73-89,1997

森泰男,「潔斎」(abstinentia)とは何か:『マニ教徒の習俗について』におけるアウグスティヌスのマニ教批判の一断面,西南学院大学国際文化論集11(2),1-13,1997-02

岡田明憲,ゾロアスタ-教における牛のシンボリズム,象徴図像研究(11),5-13,1997-03

森安孝夫,大英図書館所蔵ルーン文字マニ教文書Kao.0107の新研究,内陸アジア言語の研究12,41-71,1997-07

菊地伸二,魂の創造について:『マニ教徒を反駁する創世記注解』II,3、4〜8、11を中心に,中世哲学研究:Veritas16,99-109,1997-11

W・ズンダーマン,吉田豊(訳),マニ教と佛教の出会い:佛教がマニ教に与えた影響の問題,佛教文化研究所紀要36,11-22,1997-11

菊地伸二,〈翻訳〉アウグスティヌス『マニ教徒を反駁する創世記注解』(2),研究紀要19,177-206,1997-12

岡田明憲,ゾロアスタ-教の家族観,比較文明(14),18-27,1998

岡田明憲,イラン文化におけるゾロアスター教の意義,地域文化研究(3),92-101,1998

姜伯勤、池田温,介休の祆神楼と宋元明代山西の祆教,東洋学報80(4),423-450,1999-3

岡田明憲,拝火教とその教え,文化遺産(8),53-55,1999-10

青木健,第3回インド・ペルシア文化国際研究会議の報告:主にゾロアスター教研究について,オリエント43(1),179-185,2000

大多和明彦,東西文明とゾロアスター教,東京家政大学研究紀要1·人文社会科学40,1-7,2000-02

常塚聴,中国社会におけるマニ教の認識:唐から明までの漢文史料を中心に,東京大学宗教学年報(18),89-113,2000-3

田中かの子,現代ゾロアスター教の精神文化を理解するための基本的考察,駒沢大学文化19,53-82,2000-03

熊元和美,「モン・ブラン」とゾロアスター教,佛教大學大學院紀要28,71-84,2000-03

吉田豊,森安孝夫,ベゼクリク出土ソグド語・ウイグル語マニ教徒手紙文,内陸アジア言語の研究15,135-178,2000-10

青木健,中世ゾロアスター教の後継者:「シーラーズ系ゾロアスター教徒」の興亡,オリエント44(1),42-57,2001

小田壽典,トルコ語「八陽経」のマニ教的表現について,豊橋創造大学紀要(5),1-12,2001-02

Bravo Angel J,ゾロアスター教:自由意志の宗教,神田外語大学紀要(13),153-227,2001-03

香月法子,今日のゾロアスター教徒,地域文化研究(5),90-107,2001-06

青木健,ゾロアスター教における経典の変容,宗教研究76(3),25-46,2002

青木健,近世ゾロアスター教の救世主思想:ゾロアスター教神聖皇帝の到来から宗教思想の変容へ,オリエント45(1),75-95,2002

青木健,伊藤義教著『ゾロアスター教論集』,オリエント45(1),229-235,2002

青木健,ゾロアスター教神秘主義思想の形成:イスラーム神秘主義の影響とゾロアスター教の伝統,東洋学報84(2),227-254,2002-9

大多和昭彦,ゾロアスター教の三位一体論,東京家政大学研究紀要1.人文社会科学43,12-18,2003-02

加藤智見,世界の信仰(6)宗教共存の可能性ゾロアスター教の信仰,大法輪71(8),194-199,2004-08

上岡弘二,イラン基層文化とイスラーム:ゾロアスター教からシーア派民間信仰へ,イスラム世界(63),41-45,2004-09

青木健,ゾロアスター教における聖地の概念:神宮階級の「移動する聖火」と平信徒の自然崇拝,宗教研究79(1),25-47,2005-06

浜田直也,景教経典「一神論」とその思想(特集共生する神・人・仏:日本とフランスの学術交流),アジア遊学(79),244-257,2005-09

清水義範,こぼれ落ちた世界史(24)「ゾロアスター教」の巻,エコノミスト83(52),40-41,2005-09

泉武夫,景教聖像の可能性:栖雲寺藏傳虚空藏畫像について,國華112(1),3-17,2006-08

高明潔,一神教土着化の合理性:中国ムスリムの信仰体系と宗教活動に基づいて,愛知大学国際問題研究所紀要(128),21-48,2006-09

濱田直也,景教經典「一神論」とその佛教的性格について,文芸論叢(68),61-75,2007-03

青木健,中国江南のゾロアスター教の可能性,宗教研究80(4),1120-1121,2007-03

大塚修,青木健著『ゾロアスター教の興亡:サーサーン朝ペルシアからムガル帝国へ』,史學雜誌116(12),1972-1973,2007-12

榊和良,青木健『ゾロアスター教の興亡:サーサーン朝ペルシアからムガル帝国へ』,宗教研究81(3),738-743,2007-12

青木健,イスラーム文献が伝える多様なゾロアスター教像:六-八世紀のアラビア語資料のゾロアスター教研究への応用,宗教研究81(3),653-674,2007-12

青木健,ゾロアスター教:中央アジアのアーリア人神官ザラスシュトラと彼の伝説,比較文明(24),65-79,2008

蓮池利隆,覩貨邏僧弥陀山と百万塔,佛教學研究64,A1-A20,2008-03

中野美代子,ザナドゥーへの道(2)碑文のなかの旅人:景教僧アロポン,ユリイカ40(6),39-47,2008-05

大貫隆,初期修道制とマニ教:ナグ・ハマディ研究の視点から,創文(511),1-5,2008-08

春田晴郎,青木健著『ゾロアスター教の興亡:サーサーン朝ペルシアからムガル帝国へ』,オリエント51(1),201-207,2008

後藤敏文,アヴェスタ語:西欧文明に衝撃を与えたゾロアスター教のことば,言語37(12),80-83,2008-12

Ebert Jorinde,吉田豊(訳),近年マニ教画と認定された大和文華館所蔵の絹絵についての覚え書き(大和文華館所蔵六道図特輯),大和文華(119),35-47,2009-02

Gulacsi Zsuzsanna,田中健一,柳承珍(訳),大和文華館蔵マニ教絵画にみられる中央アジア来源の要素について,大和文華(119),17-34,2009-02

吉田豊,寧波のマニ教画いわゆる「六道図」の解釈をめぐって,大和文華(119),3-15,2009-02

蓮池利隆,常行堂の守護神・摩多羅神,佛教學研究65,65-78,2009-03

山田庄太郎,アウグスティヌスのマニ教理解について:『基本書と呼ばれるマニの書簡への駁論』,宗教学・比較思想学論集(10),17-28,2009-03

王振芬、孫恵珍,田村俊郎(訳),大谷探検隊将来品において新発見された景教の特徴をもつ地蔵麻布画についての考察:高昌ウイグル国時期の景教と仏教の関係,佛教文化研究所紀要48,178-191,2009-12

松村一男,青木健著『ゾロアスター教史:古代アーリア・中世ペルシア・現代インド』,宗教研究83(3),1002-1007,2009-12

山田庄太郎,アウグスティヌスによる悪の問題の克服:マニ教の克服と新プラトン主義の受容,哲学・思想論叢(28),21-34,2010-01

森安孝夫,日本に現存するマニ教絵画の発見とその歴史的背景,内陸アジア史研究(25),1-29,2010-03

山田庄太郎,アウグスティヌス時代のマニ教徒の自己理解について,宗教研究83(4),1563-1564,2010-03

山本由美子,呪われたもの:ゾロアスター教徒のアレクサンドロス観,季刊民族学34(2),50-53,2010

青木健,パールスィーの中国・日本来航:近現代の極東ゾロアスター教文化,アジア遊学(137),199-209,2010-12

岡田明憲,世界精神史におけるゾロアスター教:宗教思想の文化交渉面を中心に,アジア遊学(137),18-29,2010-12

山田庄太郎,ファウストゥスのマニ教理解について:アウグスティヌス時代のマニ教の一側面,宗教研究84(3),637-659,2010-12

張孝鉉,Nestorianism(景教)の東方伝播,文化継承学論集(8),84-70,2011

戸田聡,青木健著『マニ教』,オリエント53(2),142-148,2011

早瀬明,ゾロアスター教の根本教義を巡るKleuker·CreuzerそしてHegel:ロマン主義的なオリエント理解の枠組からの疎隔とZoegaからの影響,京都外国語大学研究論叢(78),51-70,2011

森田眞円,唐初の景教と善導大師,眞宗研究55,70-86,2011-01

栄新江,森部豊(訳・解説),新出石刻史料から見たソグド人研究の動向,関西大学東西学術研究所紀要(44),121-151,2011-04

世界初の揃い踏み!マニ教絵画のめくるめく世界,芸術新潮62(6),110-114,2011-06

森部豊,中国洛陽新出景教経幢の紹介と史料的価値,東アジア文化交渉研究(5),351-357,2012-2

古川攝一,マニ降誕図試論:元代マニ教絵画における位置づけを中心に,大和文華(124),11-22,2012-05

山口謠司,『景教研究関係論文目録稿(1)』,人文科学(17),41-48,2012-03

朴炫国,ソグド(Soghd)人の葬礼道具の考察:オクスアリ(Ossuaries)を中心に,国際文化研究17,11-24,2013-03

森安孝夫,東ウイグル=マニ敎史の新展開,東方学126,142-124,2013-07

森安孝夫,ウイグル=マニ教史関係史料集成,国際人文科学研究所紀要,1-137,2014

吉田豊,敦煌秘笈中のマニ教中世ペルシア語文書について,杏雨(17),324-317,2014

春田晴郎,青木健著『ゾロアスター教ズルヴァーン主義研究:ペルシア語文献『ウラマー・イェ・イスラーム』写本の蒐集と校訂』,西南アジア研究(81),51-61,2014

小山満,ササーン朝ゾロアスター教の強化による大乗仏教の東漸,シルクロード研究(8),1-12,2014-05

兼城糸絵,中国の「マニ教」に関する一考察:福建省霞浦県の事例から,人文学科論集:鹿児島大学法文学部紀要(80),41-54,2014-06

菊地伸二,「マニ教反駁書」における「意思」の問題,研究紀要36,53-61,2014-12

戸田聡,マニ教資料翻訳集成(1)リュコポリスのアレクサンドロス『マニカイオスの教説に対して』,北海道大学文学研究科紀要(146),209-239,2015-7

吉田豊、古川攝一,江南マニ教絵画「聖者伝図(3)」の発見と絵画の内容について,大和文華(129),25-41,2016-01

森部豊,中国におけるソグド人墓の発見とソクド石棺牀の復元,関西大学アジア文化研究センターディスカッションペーパー14,63-69,2016-03

妹尾達彦,シルクロードと長安のソグド人,東洋学報97(4),98-99,2016-03

石見清裕,ユーラシアの民族移動と唐の成立:近年のソグド人関係新史料を踏まえて,専修大学社会知性開発研究センター古代東ユーラシア研究センター年報2,5-16,2016-03

吉田豊,唐代におけるマニ教信仰:新出の霞浦資料から見えてくること,唐代史研究(19),22-41,2016-08

福島恵,唐代における景教徒墓誌:新出「花献墓誌」を中心に,唐代史研究(19),42-76,2016-08

岩本篤志,敦煌景教文献と洛陽景教経幢:唐代景教研究と問題点の整理,唐代史研究(19),77-97,2016-08

中田美繪,唐代中國におけるソグド人の佛敎「改宗」をめぐって,東洋史研究75(3),448-484,2016-12

藤原達也,ダエーナーとその図像表現:ゾロアスター教およびマニ教における死者の運命(死から生への眼差し),死生学年報,213-248,2017

渋谷裕子,福建省晋江市におけるマニ光仏(マニ教)信仰について,人文社会科学研究(57),97-128,2017-03

菅谷文則,ソグド楽器と天平楽器,EunarasiaQ7,14-23,2017-03

影山悦子,ソグドの歴史と文化,歴史と地理(704),39-42,2017-05

青木健,ゾロアスター教:一神教と善悪二元論の源流救世主思想にも大きな影響(基本書を読む:宗教、神話、資本論),エコノミスト95(18),84-86,2017-05

菅谷文則,シルクロードを支えたソグドと古代奈良,ユーラシア研究(56),28-32,2017-08

森田美樹,サンフランシスコ・アジア美術館所蔵の宗教絵画:マニ教絵画の可能性,大和文華(132),57-61,2017-11

吉田豊,貨幣の銘文に反映されたチュルク族によるソグド支配,京都大學文學部研究紀要57,155-182,2018-03

二、著作

佐伯好郎,『景教碑文研究』(大空社復刊1996),待漏書院,1911年。

P.Y.Saeki(佐伯好郎),『TheNestorianMonumentinChina』,England:S.P.C.K,1916年。

P.Y.Saeki,『TheLuminousReligion:astudyofNestorianChristianityinChina』,CareyPress,1925年。

佐伯好郎,『支那の景教に就いて』,日華學會,1931年。

佐伯好郎,『景教文獻及遺物目録』(丸善1950),私家版,1932年。

佐伯好郎,『景教の研究』,東方文化學院東京研究所,1935年。

矢吹慶輝,『摩尼教』,岩波書店,1936年。

P.Y.Saeki(佐伯好郎),『TheNestoriandocumentsandrelicsinChina』,TohoBunkaGakuin,1937年。

バッヂ著,佐伯好郎(訳),『元主忽必烈が欧州に派遣したる景教僧の旅行誌』,待漏書院,1943年。

佐伯好郎,『支那基督教の研究』(第1巻)唐宋時代の支那基督教,春秋社,1943年。

佐伯好郎,『支那基督教の研究』(第2巻)元時代の支那基督教,春秋社,1943年。

佐伯好郎,『支那基督教の研究』(第3巻)明時代の支那基督教,春秋社,1944年。

佐伯好郎,『支那基督教の研究』(第4巻)清時代の支那基督教,春秋社,1949年。

佐伯好郎,『支那基督教の研究(全4巻)』(増補改訂版全5巻,名著普及会1979),春秋社松柏館,1943-1949年。

佐伯好郎,『中国における景教衰亡の歴史・キリスト教の成立に及ぼしたるローマ法学思想の影響』,ハーバード・燕京・同志社東方文化講座委員会,1955年。

佐伯好郎,『ローマ帝国キリスト教保護規定の研究:ローマ法とキリスト教』,春秋社,1957年。

富山昌徳,『日本史のなかの佛教と景教:富山昌徳遺稿集』,富山さと,1969年。

羽田亨,『羽田博士史学論文集』下卷「言語·宗教」,同朋舍,1975年。

ジョン・スチュアート著,熱田俊貞、賀川豊彦訳,佐伯好郎校訂,森安達也解題,『景教東漸史:東洋の基督教』,原書房,1979年。

神直道,『景教入門』,教文館,1981年。

岡田明憲,『ゾロアスター教:神々への讃歌』,平河出版社,1982年。

メアリー・ボイス,山本由美子(訳),『ゾロアスター教:三五〇〇年の歴史』,筑摩書房,1983年。

岡田明憲,『ゾロアスター教の悪魔払い』,平河出版社,1984年。

神直道,『景教遺文の研究』,私家版,1986年。

李家正文,『天平の客、ペルシア人の謎:李密翳と景教碑』,東方書店,1986年。

矢吹慶輝,『マニ教と東洋の諸宗教:比較宗教學論選』,芹川博通校訂,佼成出版社,1988年。

岡田明憲,『ゾロアスターの神秘思想』,講談社,1988年。

森安孝夫,『ウイグル=マニ教史の研究』,大阪大學文學部紀要31/32,1991年。

法本義弘(編集),『佐伯好郎遺稿並伝』〈上・下〉,大空社,1996年。

山本由美子,『マニ教とゾロアスター教』,山川出版社,1998年。

R.C.フォルツ(Richard C. Foltz),常塚聴(翻訳),『シルクロードの宗教:古代から15世紀までの通商と文化交流』,教文館,2003年。

川口一彦,『景教のたどった道』,キリスト新聞社,2005年。

貴田晃、山口謡司(編集),『大秦景教流行中国碑翻訳資料』,大東文化大学人文科学研究所,2007年。

青木健,『ゾロアスター教の興亡:サーサーン朝ペルシアからムガル帝国へ』,刀水書房,2007年。

青木健,『ゾロアスター教』,講談社,2008年。

青木健,『マニ教』,講談社,2010年。

森部豊,『ソグド人の東方活動と東ユーラシア世界の歴史的展開』,関西大学出版部,2010年。

青木健,『古代オリエントの宗教』,講談社,2012年。

川口一彦(編著),『景教』(改定新装版),イーグレープ,2014年。

桑野淳一,『中国景教の故地を歩く:消えた十字架の謎を追う旅』,彩流社,2014年。

森部豊(編集),『ソグド人と東ユーラシアの文化交渉』,勉誠出版,2014年。

森安孝夫,『東西ウイグルと中央ユーラシア』,名古屋大学出版会,2015年。

石見清裕(編著),『ソグド人墓誌研究』,汲古書院,2016年。

原刊《2018敦煌學國際聯絡委員會通訊》,上海古籍出版社,2018年。

(感謝生海兄提供!)返回搜狐,查看更多

责任编辑:

上一篇:没有了
下一篇:没有了